navi

みどころ

1
書体の変遷
書体進化の秘密

中国の漢字は、読みやすさ・書きやすさ・美しさ等の要素を満たしながら形成されました。各要素の均衡は、社会の発展とともに変化します。そのため公式の書体は、篆書てんしょから隷書れいしょへ、隷書から楷書へと進化を遂げてきたのです。

2
唐時代の書 安史あんしの乱まで
王羲之書法の継承と楷書の完成

みどころ1
楷書の美しさ徹底解析!

唐王朝の基礎を築いた第二代皇帝・太宗たいそうは、博学で文芸に通じ、王羲之の書をこよなく愛しました。太宗に仕えた虞世南ぐせいなん欧陽詢おうようじゅん褚遂良ちょすいりょうは能書としても活躍し、王羲之書法の伝統を受け継ぎながら、楷書の典型を完成させました。

虞世南筆「孔子廟堂碑」
虞世南ぐせいなん筆 「孔子廟堂碑こうしびょうどうひ
唐時代・貞観2~4年(628~630)
三井記念美術館蔵
虞世南ぐせいなん筆 「孔子廟堂碑こうしびょうどうひ
唐時代・貞観2~4年(628~630)
三井記念美術館蔵

唐の太宗が長安の国子監に孔子廟を改築した際に建てた碑です。碑は唐末に失われ、原石拓本はこの一つしかありません。

欧陽詢筆「九成宮醴泉銘」
欧陽詢おうようじゅん筆 「きゅうせいきゅうれいせんめい
唐時代・貞観6年(632)
台東区立書道博物館蔵
欧陽詢おうようじゅん筆 「九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめい
唐時代・貞観6年(632)
台東区立書道博物館蔵

唐の太宗が九成宮に避暑した際、離宮の一隅に甘泉が湧き出た事を記念した碑で、欧陽詢76歳の作。楷書の最高傑作として知られています。

褚遂良筆 「雁塔聖教序」
褚遂良ちょすいりょう筆 「雁塔聖教序がんとうしょうぎょうじょ
唐時代・永徴4年(653)
東京国立博物館蔵
褚遂良ちょすいりょう筆 「雁塔聖教序がんとうしょうぎょうじょ
唐時代・永徴4年(653)
東京国立博物館蔵

玄奘の漢訳仏典に対して、太宗が序を、高宗が記を作り、褚遂良が揮毫したもの。唐の華やかさを盛り込んだこの書は、一世を風靡しました。

褚遂良筆 「黄絹本蘭亭序 (部分)」
褚遂良ちょすいりょう筆 「黄絹本蘭亭序こうけんぼんらんていじょ (部分)
唐時代・7世紀
台北 國立故宮博物院寄託
褚遂良ちょすいりょう筆 「黄絹本蘭亭序こうけんぼんらんていじょ (部分)
唐時代・7世紀
台北 國立故宮博物院寄託

唐の太宗は能書の臣下に王羲之の蘭亭序らんていじょを臨書させました。これは褚遂良の臨本として伝えられる作で、巻後には、近代日本の東洋学者である内藤湖南の跋文ばつぶんもあります。

みどころ2
李氏の四宝コンプリート!

臨川の名門、李氏一族に生まれた李宗瀚(1769~1831)は、その豊かな経済力を背景に、素晴らしい拓本のコレクションを誇りました。中でも隋唐の妙跡の中から孤本4種「啓法寺碑」、「孔子廟堂碑」、「孟法師碑」、「善才寺碑」を選び、門外不出の「李氏の四宝」と定めました。この四宝には「宝」朱文円印が押されています(※下記画像右肩部分)。本展では4点すべてを展示します。

孟法師碑
褚遂良ちょすいりょう筆 「孟法師碑もうほうしひ―唐拓孤本―」
唐時代・貞観16年(642)
東京・三井記念美術館蔵
褚遂良ちょすいりょう筆 「孟法師碑もうほうしひ―唐拓孤本―」
唐時代・貞観16年(642)
東京・三井記念美術館蔵

3
唐時代の書 顔真卿の活躍
王羲之書法の形骸化と情感の発露

みどころ3
天下の劇跡「祭姪文稿さいてつぶんこう」の魅力に迫る!

王羲之の書法は一世を風靡しましたが、安史の乱を境として次第に形骸化します。やがて伝統に束縛されず、自らの情感を率直に発露する機運が高まります。顔真卿はこのような意識の変化を、書の表現に見事に反映させました。

溢れ出る怒り

激情の書「祭姪文稿」日本初公開

755年に安禄山と史思明らによる安史の乱が勃発すると、玄宗皇帝は成都(四川省)に亡命し、唐の都長安は安禄山らに占領されました。内乱は8年の長きに及び、763年にようやく収束します。顔真卿は義兵をあげて乱の平定に大きく貢献しましたが、従兄の顔杲卿とその末子の顔季明は乱の犠牲となってしまいました。「祭姪文稿」とは、顔真卿が亡き顔季明を供養した文章の草稿で、悲痛と義憤に満ちた情感が紙面にあふれています。最初は平静に書かれていますが、感情が昂ぶるにつれ筆は縦横に走り、思いの揺れを示す生々しい推敲の跡が随所に見られます。

日本
初公開
虞世南筆「孔子廟堂碑」
顔真卿がんしんけい筆 「祭姪文稿さいてつぶんこう
唐時代・ 乾元元年(758)
台北 國立故宮博物院蔵
顔真卿がんしんけい筆 「祭姪文稿さいてつぶんこう
唐時代・ 乾元元年(758)
台北 國立故宮博物院蔵
顔真卿筆 「千福寺多宝塔碑」
顔真卿がんしんけい筆 「千福寺多宝塔碑せんぷくじたほうとうひ
唐時代・天宝11年(752)
東京国立博物館蔵
顔真卿がんしんけい筆 「千福寺多宝塔碑せんぷくじたほうとうひ
唐時代・天宝11年(752)
東京国立博物館蔵

顔真卿44歳の筆になるこの碑は、初心者の手本として広く学ばれています。初唐の三大家の伝統に立脚する、りりしい書きぶりです。

懐素筆 「小草千字文」
懐素かいそ筆 「小草千字文しょうそうせんじもん (部分)
唐時代・貞元15年(799)頃
台北 國立故宮博物院寄託
懐素かいそ筆 「小草千字文しょうそうせんじもん (部分)
唐時代・貞元15年(799)頃
台北 國立故宮博物院寄託

「自叙帖」とは対照的な、燻し銀のような懐素の代表作。小ぶりの草書で千字文を書いたこの作は、一字一金と評され、「千金帖」とも呼ばれています。

日本
初公開
懐素筆 「小草千字文 (部分)」
懐素かいそ筆 「自叙帖じじょじょう (部分)
唐時代・大暦12年(777)
台北 國立故宮博物院蔵
懐素かいそ筆 「自叙帖じじょじょう (部分)
唐時代・大暦12年(777)
台北 國立故宮博物院蔵

僧の懐素は酒を飲んで自己を解放し、草書で胸懐を吐露しました。自らの学書の経歴を書いた本作も、狂おしい草書で変化の妙を尽くしています。

4
日本における唐時代の書の受容
三筆と三跡

平安時代初期に活躍した空海、嵯峨天皇、橘逸勢は 、唐時代の書を通して、王羲之の書法を学びました。平安時代中期に活躍した小野道風、藤原佐理、藤原行成は、唐時代の書を学びながらも、日本独自の書風を開花させました。

空海筆 「金剛般若経開題残巻」
国宝
空海くうかい筆 「金剛般若経開題残巻こんごうはんにゃきょうかいだいざんかん (部分)
平安時代・9世紀
京都国立博物館蔵
国宝
空海くうかい筆 「金剛般若経開題残巻こんごうはんにゃきょうかいだいざんかん (部分)
平安時代・9世紀
京都国立博物館蔵

空海が『能断金剛般若経』について、密教の見地から注釈を加えた自筆の草稿本です。空海がいかに唐時代の書を学んだかを窺うことができます。

5
宋時代における顔真卿の評価
人間性の尊重と理念の探求

安史の乱を境として興った“情感を発露する書風”は、宋時代の士大夫したいふたちによって受け継がれ、さらに発展しました。書は人間性によって価値づけられるという考えから、顔真卿の書が高く評価され、古人を模倣しない、個性的な書が尊ばれました。

蘇軾筆 「行書李白仙詩巻 (部分)」
重要文化財
蘇軾そしょく筆 「行書李白仙詩巻ぎょうしょりはくせんしかん (部分)
北宋時代・元祐8年(1093)
大阪市立美術館蔵
重要文化財
蘇軾そしょく筆 「行書李白仙詩巻ぎょうしょりはくせんしかん (部分)
北宋時代・元祐8年(1093)
大阪市立美術館蔵

蘇軾が李白の作と伝えられる二首の詩を、蘆雁模様が施された美しい料紙に行書で揮毫した作。個性の表出に重きを置く、蘇軾の考えがよく表わされています。

みどころ4
李公麟の名画「五馬図巻」!

北宋に献じられた名馬を描いた、北宋の文人で「白描(はくびょう)」の名手・李公麟の代表作。宋の四大家の一人、黄庭堅の跋文が添えられています。黄庭堅は顔真卿を尊敬し、多大な影響を受けました。五馬図巻は希代の名品として伝えられ、のちに乾隆帝(1711~1799)のコレクションに入りました。

五馬図巻
李公麟りこうりん筆 「五馬図巻ごばずかん (部分)
北宋時代・11世紀
東京国立博物館蔵
李公麟りこうりん筆 「五馬図巻ごばずかん (部分)
北宋時代・11世紀
東京国立博物館蔵

6
後世への影響
王羲之神話の崩壊

みどころ5
王羲之神話の崩壊をたどる!!

王羲之書法に根ざす伝統的な書と、個性的な書とは消長を繰り返しますが、清時代も19世紀を迎えると、真跡が存在しない王羲之の書法を学ぶよりも、青銅器や石碑の文字を学ぶようになります。ここに王羲之神話は崩壊し、野趣あふれる書風が主流となります。

趙之謙筆 「行書五言聯」
趙之謙ちょうしけん筆 「行書五言聯ぎょうしょごごんれん
清時代・咸豊8年(1858)
個人蔵
趙之謙ちょうしけん筆 「行書五言聯ぎょうしょごごんれん
清時代・咸豊8年(1858)
個人蔵

趙之謙も顔真卿を学んで、基礎を固めました。その後、北魏時代の書に傾倒し、独特な筆法を用いることで野趣あふれる書を創出、王羲之神話はここに崩壊することとなったのです。

祭姪文稿 現代語訳

祭姪文稿 現代語訳

けんげん元年(七五八)、戊戌の歳、九月庚午の一日より数えて三日壬申の日、汝の第十三番目の叔父である銀青光禄大夫・使持節蒲州諸軍事・蒲州刺史・上軽車都尉・丹陽県開国侯の真卿は、礼酒や諸種の供物をそなえ、ここに亡き姪にして賛善大夫を贈られたがんめいの霊を祭る。

汝は人に抜きんでた才能をもち、幼い時から立派な人徳をあらわし、宗廟のれんのような重臣、宮庭のらんぎょくじゅのような人物となり、つねに人の心をなぐさめ、やがては福禄をけるであろうと期待されていた。

しかし、逆臣のあんろくざんが朝廷の隙をうかがい、反旗を翻し挙兵しようとはいったい誰が予期しただろうか。
このとき汝の父のがんこうけいは忠誠をつくして、常山郡の太守をつとめ、私もまた朝命を受けて、平原郡の太守であった。仁兄顔杲卿は私をいつくしみ、汝を使者として双方の連絡をとったのである。

汝が私のもとから帰り、要衝の土門を敵から奪回して開通し、土門が開通したことで、凶賊の勢いは大いに弱まった。

しかしながら、賊臣のおうしょうぎょうは救援を送らなかったため、常山城は周囲を凶賊に取り囲まれて孤立し、父は賊の手に捕らえられ、子は殺され、まさに鳥の巣が傾いて、中の卵が転げ落ち壊れてしまったのである。

天がわが一族に禍を下したことを悔いはしないが、何故このような苦毒を受けなければならないのか。汝が残虐な死に遭ったことを思うと、私の身体を百回身代わりにしても、どうしてつぐなうことができるだろうか。

ああ、哀しみの極みである。

私は天子の恩恵を蒙り、しゅうの長官として民を治めることになった。
汝の兄のがんせんめいが最近ふたたび常山に行き、汝の首を納めた棺を携え、ようやくここ蒲州に帰還した。

汝を思うと哀れみの思いで胸が張り裂け、腸が断ち切れ、その死をいたんで心身を震わせる悲憤にかられる。
いつの日か、汝が安らかに眠る墓を作って安住できるようにしてやりたい。

汝の魂が私のこの思いを分かってくれるなら、異郷に長くさまようことを嘆かないでもらいたい。

ああ、哀しみの極みである。

どうかこの祭りをうけておくれ。